渇愛 82
ここはどこだろう?
ぼんやりと銀八は思った。
きょろきょろと辺りを見回すが、薄暗いそこには本当に何もない。
何故自分がここにいるのか?ここはどこなのか?いや。それよりなにより、自分はいったい誰なのか……?
それさえもわからない。
これからどうすればいいだろう。銀八は途方に暮れるしかなかった。
どれほどそこにいただろうか。銀八しかいない空間になにが切っ掛けなのか、突然それは現れた。
「先生……」
甘く掠れる声。潤んだ瞳が、まるで縋るように自分を見上げてくる。
茫然と立ち尽くす銀八に彼は腕を伸ばし、首筋に絡めた。その姿は余りにも淫靡だ。そして優しく引き寄せられるのに銀八は抵抗することも忘れ、為されるが儘だった。
「先生、抱いて……」
もう唇が触れるほどの距離。吐息に紛れるように甘やかな声が銀八を唆す。
「土方……っ!!」
自分の名前さえ分からないのに、彼の名前だけは素直に口を飛び出す。
誰よりも大切で、護りたい存在。
銀八は迷うことなく、その体を狂おしいまでに掻き抱いた。
「先生。好きだよ。好き……」
「土方……!土方!!俺もだ。俺もお前が好きだよ」
ようやく手に入れた。
自分と同じ程の身長なのに、腕に収めるその体は今にも消え入りそうに儚い。銀八は消えてなくなってしまわないように、しっかりとその体を抱き締めた。
「せんせ……」
土方の強請るような声。それを聞いて銀八は体を離す。うっすらと開かれる花のように可憐な唇。それに吸い寄せられるように顔を寄せる。
「土方……」
今度こそ、その唇を奪おうと瞳を閉じたその瞬間、しっかりと抱き締めていたその体は突然消えてなくなった。
銀八は呆然と何も無くなった腕の中を見る。
「土方……?ひじ……?」
「――― ・かた……っ!!」
その自分の声で、銀八はパチリと音を立てるようにその瞳を開ける。
途端に満たされる光。目は刺されるような刺激に襲われ、銀八は思わず開けた瞳を再び閉じた。
「あんたは夢の中でもあの人ですかィ」
呆れたような声が掛かり、銀八は一瞬首を捻る。何故この声が今ここで聞こえるのだろう?
もう一度、今度は慎重に瞼を開けると、そこには呆れかえったような自分の受け持ちクラスの生徒たちが自分を見下ろしている。
銀八は訳が分からなくて、彼らを見てから、ふとそこが今まで自分がいた場所とは違うことに気が付いた。真っ白な壁、真っ白なカーテン、真っ白なシーツ。無彩色なそこに、ようやく銀八は自分がどこにいるのか、納得した。
嗚呼、病院か……
「全く人騒がせでござるよ」
「抜け駆けして、土方と駆け落ちでもしたのかと思ったぜぇ?」
そう。あの日、土方の元に急いでいた小雨が降りそぼる中。襲われた突然の衝撃は、後ろから車に当てられたのだ。
幸いそうスピードが出ていなかったから骨折や内臓損傷はなかったのだが、倒れた時にどうやら打ち所が悪かったらしく、意識が三日ほど戻らなかったらしい。
銀八はその日、身分を証明するものを何も持っていなかったために、その間行方不明になっていて大騒ぎだったと、先ほどようやく連絡を取った金時が電話の先で嘆息交じりに教えてくれた。寝起きだった彼も、今頃こちらに向かっていることだろう。
生徒たちは意識が戻ったばかりの銀八に負担を掛けないようにと、すぐに帰っていった。
一人になった途端に頭を占めるのは彼のことだ。
土方はどうしているだろう。銀八が意図したことではないのだが、意識の戻らなかったこの三日。彼からしてみれば、突然銀八が来なくなったことになっているに違いない。
早く退院して、行ってやらなければ……。
きちんと食べているだろうか。考えることといえば、土方のことばかりだ。
そして彼のことで一杯になりながら、銀八の意識はいつの間にか沈みこんでいた。
「先生!!」
あまり彼のことばかり考えていたためか。声まで聞こえてきた。
嗚呼、また夢か……。
どれほど自分は彼に捕われているのか。自分でも滑稽になるほどだ。
「先生……!先生!!」
幻聴はしかし、余りにもリアルだった。
おかしい……。
すぐ耳の傍で聞こえる声。そして銀八は温もりと重みに気が付いた。
「先生!!先生!!
意識が突然鮮明になる。
そこで目にしたのは、大声を出し、泣きじゃくる土方の姿。
今の今まで求めていた彼が、銀八にしがみ付いていた。
「土方!?」
吃驚して声を掛けると、土方の体はびくりと大きく揺れ、顔を上げる。
久しぶりに見た彼はそれでなくても細かったのに、さらに細くなっているような気がして胸が痛んだ。
土方は驚きのあまり泣くのを止め、まるで幽霊を見るような目で銀八を見た。
「先生……?生きてる?」
「ああ。死んじゃいねぇな」
死ぬほどの怪我ではなかった。金時にはそう言ったはずなのに、何故彼はこんな勘違いをしているのだろう。
土方の後ろにいる金時に気付いて、問い質すために口を開こうとしたその瞬間、土方の綺麗な黒真珠のような瞳からぼろぼろと表現するよりも激しいほどに、再び涙が幾筋もその頬を伝い始め、銀八はぎょっと目を見開いた。
何か言おうと、土方ははくりはくりと口を開閉させるが、もう声にならないようだ。そのまま土方は突っ伏し、声を上げて泣き始めた。
恐らく銀八が訪れなかった三日間。土方は不安で不安で押し潰されそうになっていたに違いない。
「ごめんな」
銀八にはそれしか言えなかった。
このまま泣かせておいた方がいい。きっと今までずっと溜め込んでいた物が、これを切っ掛けに一気に噴き出したのだろう。
銀八はしゃくりあげる背中を、優しく撫で続けてやった。
ぼんやりと銀八は思った。
きょろきょろと辺りを見回すが、薄暗いそこには本当に何もない。
何故自分がここにいるのか?ここはどこなのか?いや。それよりなにより、自分はいったい誰なのか……?
それさえもわからない。
これからどうすればいいだろう。銀八は途方に暮れるしかなかった。
どれほどそこにいただろうか。銀八しかいない空間になにが切っ掛けなのか、突然それは現れた。
「先生……」
甘く掠れる声。潤んだ瞳が、まるで縋るように自分を見上げてくる。
茫然と立ち尽くす銀八に彼は腕を伸ばし、首筋に絡めた。その姿は余りにも淫靡だ。そして優しく引き寄せられるのに銀八は抵抗することも忘れ、為されるが儘だった。
「先生、抱いて……」
もう唇が触れるほどの距離。吐息に紛れるように甘やかな声が銀八を唆す。
「土方……っ!!」
自分の名前さえ分からないのに、彼の名前だけは素直に口を飛び出す。
誰よりも大切で、護りたい存在。
銀八は迷うことなく、その体を狂おしいまでに掻き抱いた。
「先生。好きだよ。好き……」
「土方……!土方!!俺もだ。俺もお前が好きだよ」
ようやく手に入れた。
自分と同じ程の身長なのに、腕に収めるその体は今にも消え入りそうに儚い。銀八は消えてなくなってしまわないように、しっかりとその体を抱き締めた。
「せんせ……」
土方の強請るような声。それを聞いて銀八は体を離す。うっすらと開かれる花のように可憐な唇。それに吸い寄せられるように顔を寄せる。
「土方……」
今度こそ、その唇を奪おうと瞳を閉じたその瞬間、しっかりと抱き締めていたその体は突然消えてなくなった。
銀八は呆然と何も無くなった腕の中を見る。
「土方……?ひじ……?」
「――― ・かた……っ!!」
その自分の声で、銀八はパチリと音を立てるようにその瞳を開ける。
途端に満たされる光。目は刺されるような刺激に襲われ、銀八は思わず開けた瞳を再び閉じた。
「あんたは夢の中でもあの人ですかィ」
呆れたような声が掛かり、銀八は一瞬首を捻る。何故この声が今ここで聞こえるのだろう?
もう一度、今度は慎重に瞼を開けると、そこには呆れかえったような自分の受け持ちクラスの生徒たちが自分を見下ろしている。
銀八は訳が分からなくて、彼らを見てから、ふとそこが今まで自分がいた場所とは違うことに気が付いた。真っ白な壁、真っ白なカーテン、真っ白なシーツ。無彩色なそこに、ようやく銀八は自分がどこにいるのか、納得した。
嗚呼、病院か……
「全く人騒がせでござるよ」
「抜け駆けして、土方と駆け落ちでもしたのかと思ったぜぇ?」
そう。あの日、土方の元に急いでいた小雨が降りそぼる中。襲われた突然の衝撃は、後ろから車に当てられたのだ。
幸いそうスピードが出ていなかったから骨折や内臓損傷はなかったのだが、倒れた時にどうやら打ち所が悪かったらしく、意識が三日ほど戻らなかったらしい。
銀八はその日、身分を証明するものを何も持っていなかったために、その間行方不明になっていて大騒ぎだったと、先ほどようやく連絡を取った金時が電話の先で嘆息交じりに教えてくれた。寝起きだった彼も、今頃こちらに向かっていることだろう。
生徒たちは意識が戻ったばかりの銀八に負担を掛けないようにと、すぐに帰っていった。
一人になった途端に頭を占めるのは彼のことだ。
土方はどうしているだろう。銀八が意図したことではないのだが、意識の戻らなかったこの三日。彼からしてみれば、突然銀八が来なくなったことになっているに違いない。
早く退院して、行ってやらなければ……。
きちんと食べているだろうか。考えることといえば、土方のことばかりだ。
そして彼のことで一杯になりながら、銀八の意識はいつの間にか沈みこんでいた。
「先生!!」
あまり彼のことばかり考えていたためか。声まで聞こえてきた。
嗚呼、また夢か……。
どれほど自分は彼に捕われているのか。自分でも滑稽になるほどだ。
「先生……!先生!!」
幻聴はしかし、余りにもリアルだった。
おかしい……。
すぐ耳の傍で聞こえる声。そして銀八は温もりと重みに気が付いた。
「先生!!先生!!
意識が突然鮮明になる。
そこで目にしたのは、大声を出し、泣きじゃくる土方の姿。
今の今まで求めていた彼が、銀八にしがみ付いていた。
「土方!?」
吃驚して声を掛けると、土方の体はびくりと大きく揺れ、顔を上げる。
久しぶりに見た彼はそれでなくても細かったのに、さらに細くなっているような気がして胸が痛んだ。
土方は驚きのあまり泣くのを止め、まるで幽霊を見るような目で銀八を見た。
「先生……?生きてる?」
「ああ。死んじゃいねぇな」
死ぬほどの怪我ではなかった。金時にはそう言ったはずなのに、何故彼はこんな勘違いをしているのだろう。
土方の後ろにいる金時に気付いて、問い質すために口を開こうとしたその瞬間、土方の綺麗な黒真珠のような瞳からぼろぼろと表現するよりも激しいほどに、再び涙が幾筋もその頬を伝い始め、銀八はぎょっと目を見開いた。
何か言おうと、土方ははくりはくりと口を開閉させるが、もう声にならないようだ。そのまま土方は突っ伏し、声を上げて泣き始めた。
恐らく銀八が訪れなかった三日間。土方は不安で不安で押し潰されそうになっていたに違いない。
「ごめんな」
銀八にはそれしか言えなかった。
このまま泣かせておいた方がいい。きっと今までずっと溜め込んでいた物が、これを切っ掛けに一気に噴き出したのだろう。
銀八はしゃくりあげる背中を、優しく撫で続けてやった。




